昔の看護の仕事

ご注意! 聞き取り、投稿によって成り立っていますが、時代考証などを全く行っていませんので実際に行われていることと違うことがあるかも知れません。またご本人の思い違いもあるかも知れません。更に病院による格差は大きいようで大病院と医院でもものすごく差があるようです。ですから資料性は疑わしいですが楽しんでください。では

消毒

煮沸消毒というのをしていました。その方法ですけど詰所で七輪(これ知ってますか?大阪では"かんてき"というらしいです。)それでグツグツ煮て消毒していたそうです。七輪ならさんまを焼いたらうまいでしょうに。

アンプルカッタ-

ようやく入手しました。アンプルカッタ-です。レアものです。
昔はこれでアンプルの首のところをギコギコしてパコンとアンプルを開けてたのですね。
大きさは、だいたい17mm×16mmぐらいです。
アンプルカッタ−はいろいろな色がありましたよ。点滴作りが楽しくなる?

アンプルとのツ-ショットです。いやワンショットでいくものですけど、ちなみにこのアンプルは、イ-ジカットのアンプルです。さすがに昔のアンプルまでは手に入らない? 

におい

昔、病院のにおいといえばクレ-ゾ-ルという消毒液のにおいだったと思います。 病院全体がクレゾ-ルのにおいがして、そのにおいだけで病院のイメ-ジでした。 回診の時は洗面器に消毒液をいれ、医師がその都度手を消毒したりしていました。 今でもそうでしょうけど 科によってなんとなくにおいが違いますね。整形外科は整形外科のにおいがするし… 聞いた話ですけどね、消毒液が入った洗面器に、ご丁寧に"消毒液"と書いた札が下がっていたそうです。 その札の一部が破損して"消"という字が文字通り消えていたそうです。 恐ろしいですね。そんなもので…

"たんつぼ"

さて汚い話。"たんつぼ"というのをご存じですか? たんつぼというのは、その通り痰を入れる壺です。かぁ~~っ ぺっ!! ってかんじで痰を入れる壺です。 そんなのが病室にあったらしいです。結核病棟かも知れませんがそんなものが もっと気持ち悪い話を見たいというこちらをどうぞ

点滴台

昭和30年代に使われていた点滴台です。 立派な造りで重さは6kgもあり持つと疲れます。持たないけど…昔のは、キャスタ-なんて付いていなかったのですね。この点滴台少し奇妙なかたちなんですが、上部のところにイリゲ-タ-を引っかけてそれが今でいう点滴ボトルになるようです。肝心の液は、ブドウ糖などをイリゲ-タ-の上部からドボドボと入れていたそうです。もちろんイリゲ-タ-は滅菌したものだったそうです。 点滴に使われた後には大量皮下注射に使われていたようです。この大量皮下注射はまたの時に…すごかったようですよ。大量皮下注。 画像では全くわかりませんが、歴戦の勇者達の絆創膏がいっぱい張り付いている一品です。しかも噂によると陸軍病院からのものではないかという話も…しかし悲しいながら現在はモップ掛けとなっております。

酸素吸入

昭和45年頃から50年代に入ってもしていた酸素吸入のことです。 酸素吸入ですが、今は中央配管になっており、酸素の流量を調節することができますが その昭和45年頃にはどうしてたかというと"500の酸素ボンベ"というのに管を通して三角フラスコに通してそのフラスコの中を酸素が通るときにブクブクと言わせながら患者さんに酸素吸入をしていたそうです。 それで流量の調整ですが、ボンベのつまみを回しますと酸素がたくさん出てきますが、その時の三角フラスコのブクブクの量を見て決めるんですって! しかも圧を上げすぎると三角フラスコの黒いゴム栓が吹っ飛んでいたらしいです。よく出て3Lぐらいだったらしいですけど、よく調整していたものです。 ちなみにO2用のネラトンカテ-テルは、ブル−。導尿用が茶色だったそうです。 三角フラスコぶくぶくですか? 理科の実験みたいですね。

ギョウ虫

昭和30年頃の話 看護学生の時の話ですが、実習の時、患者さんの便を"便こし"で便をこしギョウ虫を見つけるということをやっていたそうです。 ギョウ虫ですか? そういう虫も なかなか見られなくなりましたねぇ。小学校の時ギョウ虫検査をしたような記憶が、それにしても昔の学生はなんでもしてたのですね。

米穀通帳

まずは米国通帳ではないです。 昭和38年看護学校の寮に入寮するときに住民票と米穀通帳を持っていった。 「米穀通帳とは?」 これがなかったら米の配給が受けられなかった。 「戦後だいぶたっているけど配給だったんですか?」 そう配給。 入寮すると軍隊の毛布をくれた。「ほんまに昭和38年の話ですか?」 カ-キ色の重たくて、マ-クの入った毛布だった。この病院の前身が陸軍病院第11師団だったんですね。 それの余り物じゃないかな? 一部屋に5名。冬が来たら各部屋に炭をくれ、火鉢で暖をとっていた。 「火鉢って一酸化中毒は大丈夫だっんですか?」んなもん部屋は隙間だらけ! そういえば正月になると餅を20個くれていた。

白衣の糊付け

これも学生の時、だから昭和38年から40年ぐらいね。白衣の洗濯は病院がしてくれていた。昔はたいていの病院が自分のところに洗濯場があって洗濯をしてくれていた。今はどこでも外注だけどね。 それでね、白衣が返ってきたら白衣の糊付けをするんだけどこれは個人でするの。 どうやってするかというと、ご飯を糊にするのね。「封筒を貼るのにご飯粒を使うって聞いたことがあるけど白衣の糊付けもするんですか?」そうよ。それがまたパリンパリンになって学生が歩いていたらサクサク音がするぐらい。もっとも私は、ごはんを残さずきれいに食べていたから、その糊を先輩にもらいに言ってたけどね。「それはいやしいという…」コラッ!

学生のバイト

夏休みなどにバイトに行き、包帯を巻いたり、包帯交換の手伝いをしたりしていた。 2年からいろいろな手伝いをしてた。一日、日勤だけで700円ぐらいだった。「時給ですか?」アッポ! 日給! 昭和41年の月給が19700円。ええバイトでしょ。しかも汽車代、食事付、ねるとこありだったんだけど「だけど…?」一緒に行ってた友人の母親が日本脳炎で亡くなったのよ。「日本脳炎ですか!日本庭園じゃなくて!」アッポ! それで母が亡くなったから帰してくれと言ったら、バイト生で職員を休ませているから補充が効かない!今更職員を呼び戻せない! と結局帰してくれなかった。「ウウウ恐ろしいですね。」でしょ!

グリセリン浣腸

今ではディスポのグリセリン浣腸ですが、昭和40年代はグリセリン浣腸を作っていました。グリセリンと水を混ぜて作っていました。それをネラトンカテ-テルのついたガラスの注射器に入れ浣腸をしていました。

石鹸浣腸

今は石鹸浣腸は危険性があると言うことで見られなくなりましたが、これも作っていました。石鹸の粉を浣腸用の金属の容器に入れ微温湯でとき、その金属の容器の下側にチュ-ブをつけ石鹸浣腸をしていました。これがまた500ccほど入れるのですが

バルンカテ-テルが無い時代

尿道に挿入しているあめゴムのチュ-ブかネラトンカテ-テルをタコ糸でくくり、そのタコ糸をそけい部などでテ-プで留めチュ-ブが抜けないように工夫していました。もちろんウロバッグも無く排出側は尿器をあてていました。尿管理もたいへんでしたけど患者さんもたいへんだったと思います。

ディスポの手袋

手袋はしなかったなぁ~ケアの時、手でするのが当然でした。手袋を使うときと言えば便などで汚れた衣類などを炊事用の手袋を使っていたぐらいかなぁ~患者一人一人なんて使っていなかった。手当なのよ。今はゴム当てでしょ?!

予防注射

そういえば昔の予防注射といえば、一本の注射器に何人か分の薬液を入れ、針を代えずにその人数分注射していたと思う。

勤務

そうねぇ~一人夜勤だったね。0時30分から8時30分時間帯は今と同じだったけど一人でしてた。準夜も一人。よくやってたね。ひとりで なにかあると呼びにもいけないものだから吐血とかあってもまず自分たちである程度処置をしなくては恐ろしくて呼びにもいけなかった。準夜には遅出勤務13時から21時。早出勤務が6時からと言うのがあったけどとにかく一人は綱渡りだった。

勤務表

深深深準準準と言う勤務はざらだった。休みは月に4回、土曜は半日だった。勤務場所で若い人になるとほとんど休み無く、ついでに日勤もなくほとんど夜勤みたいな人もいた。そうねぇ~夜勤12~3回/月ぐらいかな?

病棟

冬場は寒くって、火鉢みたいなものにレンタンを入れレンタンってわかんないよね。まぁ炭みたいなものかなぁ~そんなもので詰め所で暖をとっていた。

病院

とにかく30年代かな?木造のボロボロの病院で床は木だった。冬になると下から冷気が来てすごく寒かった。ちなみに患者さんはベッドでした。さすがに私たちの時代でも畳ではなかった。国立病院系というのは全部同じような造りで棟と棟の間を廊下でつないでいるようなところが多かった。歩くと床が木なものでギシギシと音がしていっそう気が滅入った。それに暗かった。あかりが少なかったのだと思うけど暗かった。色も暗い色という感じがある。

お湯

お湯は看護をする上で大切なものなんだけど、病棟で湯がでるわけじゃないのよね。じゃどうしてたのかというと台車を持って行き、湯沸かし室に行きコインを入れたら使えるガスコンロがありそこで湯を沸かして台車で病棟に持って帰り患者さんに配茶してた。もう配茶と言うことばもないかもね。

モニタ-の無い時代

ウチでは昭和51年頃にモニタ-が導入された。それまでは適当な時に血圧を測ったりするだけ血圧計ももちろん水銀のあのシュコシュコカフをふくらませるやつね。もういま電子血圧計ばかりで水銀血圧計を使う機会はないですね。それでモニタ-が無かった時代はずっと測定できるものではなかった。昔はおうようだったのかインフォ-ムドコンセントなんてなかって、看護婦が家族に状態悪いですよとか言っていましたし、家族が今おじいさんが息を引き取りました。と看護婦に言いに来たりしていました。そういえばこれは現在の話なんだけど私のおじさんのお見舞いに行ったのですが、部屋にはいるとすでに下顎呼吸だった。すぐに看護婦が入ってきてモニタ-を付けるんですよ。少し悲しくなりましたね。

治療

昔は何もしてなかった。まぁ看護婦が言うのも変だけど言わしてもらうとなまじっかするばっかりに開頭とかしたばっかりに植物人間になったりと昔の看護の方がよかったなぁ~自然に死によった。挿管なんかせんかった。自然に

注射

今静脈注射の行政解釈がどうのとか言ってるけど、昔から看護婦が注射しょった。今以上に危なそうな注射もしてたな

制限

昔は看護学校の入学資格に身長の制限があった。なんcm以上というのがあった。いまは無くなったみたいだし欠格事項も廃止されたの?なんで身長制限だったのかなぁ~

アンプル

これは結構最近までしていたけど、新しい人は知らないと思う。アンプルを切るのに今はイ-ジカットで点のところを折ればパキッと折れるようになっているけど、昔はアンプルカッタ-というのがあってものによってはハ-ト型だった。それでアンプルのクビのところをギギッと傷を付けてからパキッ!とカットしたました。ガラスを切るのって結構恐くってガラスで指を切ったりしたこともあったっけ

注射針

昔はね、注射針は、金属で看護婦が研いでいたの砥石みたいなもので磨き終わったもの引っかかり具合を見るためにガ-ゼに滑らせてひっかかり具合を見てよく研げているか見てた。出来上がった注射針をゴムのチュ-ブで出来た装置、装置は大げさだけどそれに刺してチュ-ブに水を通すと針先から水がピュ-と出てくる、いきおいよくでないとだめだった。

亡くなられた人

昔はそう寝台車を頼むなんて無かった。車もみんながもっているわけではなかったから 近所の人 まぁ親戚の人の車に「あんたのおっさんやから乗せて帰ってあげな。」と言う感じで遺体を車に乗せて帰ってたわ。

MEMO

まさか大八車?


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